ファド 〜サウダーデ(哀愁)を伴う人々と大地の心の叫びの歌〜

ファドとの出会いは2007年。

運命の強い結びつきで、私はファド歌手になりました。

 

ひたすらに、「ファドを歌いたい」という思いだけで、たった一人リスボンに降り立ち

翌日から毎夜、バイロアルトやアルファマでファドを歌い続けました。

 

そしてポルトガルギターを担いで日本に帰ってから

演奏活動を始めました。

 

2008,2009,2012,2013,2015年と単独でリスボンに滞在し、

少しずつ少しずつ積み重ねて

ファドを学び、歌いながら、日本の皆様にファドをお届けしています。

 


1)ファドとは何か?

「ファドとは何か?」と聞かれて

言葉で説明をするのは、実は簡単です。

「リスボンに200年前くらいからある、大衆音楽。

そうですね。日本の演歌や歌謡曲みたいなものでしょうか?」

人に聞かれた場合、私はこう簡潔に答えます。

そしてこの説明に間違いはないとも思います。

 

けれど、「ファドを知る」というのは、言葉で説明できるものではないと感じています。

なぜならファドは「リスボンの人々とその大地の心の叫び」だからです。

その心の叫びを、リスボンでは「サウダーデ」といい

「郷愁・哀愁」日本で言うところの「わび・さび」に通ずるもの言われます。

そのサウダーデを伴う歌を聞いて、ギターの音色を聴いて、ファドを心で感じたとき。

ファドとの出逢いがはじまります。

 

ポルトガルの歴史の中で、いつファドが生まれたのかについては様々な説があります。ブラジルから逆輸入され、太鼓のリズムがなくなって現在の形になったという説や、帰らぬ男を待ちわびる女たちの叫び・・・・

 

 

そんな中で、私は「リスボンの港町の下町に生きた人々。

また、インドより流れ流れて生きてきた流浪の民ジプシー(ロマ)の影響も受け自然に始まった、リスボン人の心の歌。大衆の音楽である」と考えています。

 

(わたくし自身もイスラム・フラメンコ的な歌い回しにどうしても共通部分を感じずにはいられません)

 

 

最初の有名なファド歌いはマリア・セヴェーラという女性で

下町の売春婦でもありました。

 

ファドは決して、高尚な音楽ではなく、ブラジルのサンバや、

アルゼンチンのタンゴのように、大衆的な場所から自然発生した、

当時の下層級の人々の「生活から生まれた音楽」です。

Fadoは、ラテン語のファラム=運命という言葉が原語とも言われ、

その言葉からも運命や宿命をともなった歌なのです。

 

そのようなファドを一気に全世界に知らしめたのが

アマリア・ロドリゲスという女性歌手でした。

彼女は、ポルトガルから世界にファドを発信し、

そのすばらしい歌唱で今でも、世界中に愛されています。

ファドは歌手(ファディスタ)、低音のベース音を勤めるアコースティックギター(フラメンコギターを使うこともある)

最後に高音で哀愁たっぷりの音を奏でる12弦のポルトガルギター。

3つの楽器で演奏されます。

歌詞については、有名な詩人がつけたものも多く存在します。

日本では、ファドは「暗い音楽だ」と言われることが多いのですが、

実際は哀愁を歌うものだけではなく、町の噂話や、人物、

そしてリスボンを讃えるものなど明るいファドも多く存在しています。

 

ファドは決して「悲しい」「打ちひしがれた」「哀愁」という言葉だけでは言い表せない、大きな大きな感情の幅を表す音楽です。

 

 

 

2)ファドとの出会い

そのようなファドと私(浅井雅子)がどのような形で出会ったか、、、

それは運命でした。

2007年ファドに出会うまで、私はサルサ、ボレロといった

キューバ音楽の歌手をやっておりました。

あるとき、知人から一枚のCDを渡されました。

 

その中にたった一曲「ファド」が収録されていたのです。

聞いたことのない、弦楽器(ポルトガルギター)の音を耳にした私は、

その音色にまずは心を奪われたのですが、いろいろと曲を聞いていくうちに

「この歌はただ聴くのではなく私も歌いたい」と強く願うようになりました。

 

 

日本でファドに近づく方法を色々と調べましたが、

今までサルサという「裾野の広い世界」にいた私にとって

ファドという音楽が、日本では、まだそんなに広まっていないことを

あとから知りました。

 

「とんでもないものを好きになってしまった」

当時唯一、ファドの歌唱を習えるのはファドミュージシャンが

他よりも多く住む大阪でした。

 

私は東京から大阪まで、歌を習いに新幹線で通いました。

ところがしばらく自分で歌っているうちに、

「やはりリスボンに行かないとだめだ。本場を見て来ないと空気を吸わないと

何も始まらない」

と強く思うようになりました。

 

それから、半年後。

私は、ポルトガル語もろくに話せず、知り合いも一人もいない初めてのリスボンに

「ファドを聴き、現地で歌うため」にたった一人で、

その情熱だけをスーツケースに詰め込み降り立ったのです。

 

 

3)リスボンのファド

リスボンには、多くのファドハウスがあります。

毎夜そこではファドの演奏家たちが、食事をしながら楽しむ客のために

演奏しているのです。

私の目的は、そこへ行き多くの歌手、多くの演奏を聴いて、

体にしみこませようというものでした。

リスボンは、とても美しく気候のいい街で、しかも安全です。

そこで私は、なんと「最初の夜からファドを歌うことにチャレンジ」し、

二週間の間ほとんど毎日のようにファドを歌い続けました。

 

現地に行き、何の打ち合わせもないまま、舞台に出て行くと、

ギタリストに歌う曲名と歌のキーを聞かれます。

それを告げたら、リズムもテンポもお任せで一発勝負の歌を歌わねばなりません。

経験の浅い私にはとてつもないチャレンジの毎日でした。

日本人の私が拍手喝采を浴びるときもあれば、嘲笑の的になることもありました。

私のファドは、日々、色々な状況で、環境で歌うこととなりました。

それでも「毎日歌いに来なさい」と言ってくれたお店がいくつかあり。

私はめげずに通ったものです。

ただ、向こうにいって分かったことは、

感動するファドというものにはなかなか出会えない。ということでした。

 

2008年秋、2009年春、私は二度リスボンに向かい、

多くのファドハウスを見てきました。

いつ、誰のファドを聴いて私は感動するのだろうと思いながら。

でも「うまいなぁ」「すごいなぁ」と思うことはあっても

心にぐさりと突き刺さるような歌になかなか出会えないのでした。

その理由は、現在の観光化されたリスボンで観光客に向けて歌うファドというのは、

私の求める心からの叫びのファドではないからなのでした。

もちろんそんな中にも、心を込めて歌うすばらしい歌手はいます。

けれど、その歌手やギタリストに、「その気持ちが充分に」あっても、

実はそれだけではどうにも成り立たないのがファドの難しいところなのです。

4)ファドは上質な静寂と高揚の中に生きる

ではどのようにしたらいいファドに出会えるのでしょうか?

それは、現地の普通の人々。プロの歌手ではないけれど

「自分はファドが大スキなんだ!」という人の歌を現場で聞くことなのです。

最初に私は書きました。「ファドは大衆の中から自然に生まれた音楽」であると。

リスボンで、美しいファドハウスに通ううちに、私が忘れていた原点はそこでした。

 

ある日、一人のギター弾きに紹介され、下町の食堂で開かれるファドの集い

のようなものに行くことになりました。

そこでは、約80人くらいの現地の方々が集まってファドを歌っていたのです。

夜8時半くらいから始まった宴は、延々と続きました。

いいファドもあれば、まずいファドもありました。

人々は好き勝手に批評をします。つまらなければ店を出て行きます。

「ここが、ファドが生まれた場所に近いところなんだ」

私は、肌で感じ取りました。そこで私は多くのものを学びました。

そして私も舞台に出て歌いました。

 

私が歌いだしたとき、名もない、ただの旅行者の日本人の女が歌って

そこにいた皆様はかなり驚いたことと思います。

でもそこには、歌手、アコースティックギター、ポルトガルギター

そしてもうひとつなくてはならない「ファドに必要な音」がありました。

それは、「静寂」という「無音空間」です。

歌い終わったときに「バイン(いいね)・・・・・・」

と隣のおじさんがぽそっとつぶやくまで

誰一人、そこにいた80人のお客様で話す人はいませんでした。

私の声はそこに響き渡り、緊張で、か細くなったり、時に感情が動いたり、

裏返ってひっくり返ったり

けれどもその10数分の間、浅井雅子という自分の「すべて」が

ファドの世界の中に、照らし出された瞬間でした。

 

となりに座っていたおばあさん3人が立ち上がって拍手をして、

涙をうかべていました。

私は何が起こったのがわけもわからず、3曲歌い上げ、

そしてふらふらと自分の席に着いたときわかったのです。

「聴く側のファドへの気持ち」「演奏者の感情と情熱」「そして静寂と高揚」

これが揃わなければ、今も生きているファドとは言えない。

「ファドは上質な静寂、そして高揚の中に生きている。」

その日をさかいに私は色々なことを考えました。

翌日はファドを聴きにいくことさえ、やめたくなるほどになりました。

なぜなら観光客のみが集まる早い時間のファドハウスにはその、上質な静寂はなかなか生まれてこないからです。

 

 

5)日本のファドの現状

最初に書いたとおり、日本ではいまだファドという音楽が広く知られていません。

なぜならば、まずミュージシャンが少ない。

ポルトガルギターを弾けるギタリストは数人しかいないのです。

また歌手も両手の指で足りるほどしかいないのです。

 

ファドは、ファドが好きな人が集まる場所で演奏されています。

けれどそれだけでいいのでしょうか?

私は、挑戦をすることにしました。

まずは自分でポルトガルギターをリスボンから買って帰りました。

目的は「日本で初めてのファドのバンド」を作ること。

ファドというものをはじめて演奏する3人組「港町ファド」の誕生でした。

そして、まずは一年は

「ファドなんて知らないし興味もないという人々の前でもファドを演奏しよう」

と決めました。

もちろん始めたばかりの演奏です。

最初はつたないものでした。でも何度も何度もライブを重ねながら、私たちにできるファドへの追求をしていきました。

 

2009年 私はファドを含めたライブを60回以上行いました。

(2015年の今の時点でおそらく400回以上は各地においてファドライブをしていると思います。)

 

最初に私が結成した港町ファドだけではなく(現在活動停止中)、

内山ユウキ氏、梅田光雄氏、稲葉光氏、木村純氏という

ファドに興味を新しく持ったしいギタリストとも出会い、

また女性のピアニスト吉川まゆみ氏ともギターだけではないファドへの新しい取り組みを始めることになり

「私のファドへの道」は少しずつ開けていきました。

 

東京・横浜・千葉・大阪・神戸・京都・山形、熊本・福岡ライブハウス、バー、

時には海の家や、立ち飲み屋、老人施設、という広範囲にわたって演奏をしました。

色々な人が聞いてくださり、色々なことがありました。

 

そのすべての出来事は、ファドの運命そのもののような

出来事だったように思えます。

たくさんの経験が、リスボンでは味わえないものとして

私の声に重なって行きました。

 

初心である。

「ファドが好きだという人だけが集まるのでは終わらない場所」

で数多く演奏できたと思っています。

「ファドっていうもんを生まれてはじめて聞いた。」という言葉を多く頂きました。

 

なぜそうしたかったか、それは私自身がそうして偶然に

ファドに出会ったからです。

 

きっかけはなんでもいい。

私たちを好まなくてもいい。

ただ

「ファド」という言葉、その存在を知らせていきたかった。

私たちが精一杯演奏し、その気持ちと出会ったならそこからその人のファドが始まると・・・・

 

最初はそういう気持ちだけでした。

 

そうしてファドに出会った人の中には、

ファドのギターを弾きはじめた女性やギタリストもいます。

ポルトガルの現地に向かってくれた方もいます。

 

そしてそういう方たちが今の私を心から応援し、支えてくれています。

これは小さな活動です。

けれどたくさんの人々の助けがあり、今、私は恋焦がれた音楽、

ファドを大好きな弦楽器であるギターとともに歌うことができます。

毎日感謝して生きることができます。

 

ファドを通しての出会いを私は自分の「心のファド」として、

日々、自分の心のノートに詩として書き留めます。

大阪で、ファドを聴いて三十年というお客様から頂いた

素敵な言葉を最後に書きます。

 

「ファドは、リスボンにあるものだけじゃない。

心に響く声、心に残るギターの音。

それがどんな歌であってもそれはファドだと思う。

ファドは、そこかしこにあるものだよ。」

 

 

 あっと驚く音も、ふとした情感も、

思わず飛び出る心の声も感じられることと思いますが、

今、ファドを愛している私たちがありのままでそこにあると思います。

 

皆様の心に、そんなファドが残るよう、学ぶことを続けて、これからも心を込めて

8年目の今、大切に歌い続けたいと思っております。

 

 

(2009年末)ファディスタ MACHAKO(浅井雅子)

☆現在演奏者が変わっている部分もあり、書き直し、修正部分があります(2015年12月)

 

 

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